子どもの叱り方、創造性は失敗の積み重ねから生まれてくる。
子どもたちには失敗してもらいたくないという、我が子を思う親の気持ちは誰しも同じものです。
でも、失敗しないでもらいたい、成功してしほしいという気持ちが強くなりすぎるとついつい叱りすぎたり、親の思いをぶつけすぎたりしてしまいます。
子どもたちはたくさんの失敗をしながら様々な事を学んでいきます。成功する人に共通していることは数多くの失敗を繰り返してきているということです。
子どもには失敗から学ばせる叱り方をする
あえて失敗させる、というのは残酷だと思う人もいるかもしれません。ですが、人は必ず失敗する生き物です。失敗しながら学んでいき、失敗からこそ真の学びを得ることができるのです。わざと失敗させるように仕向けるという必要はありませんが、失敗するとわかっていてもやらせるくらいの気持ちが必要です。
親が子どもに失敗させないようにと、先回りして失敗を防いでしまうことは、一見すると、子どもをきちんとしつけているとか優しいとか思われるかもしれませんが、実はまったくの反対で、子どもから学ぶチャンスを奪ってしまう行為であって、それは優しさではなく、子どもが失敗することで親自身が恥ずかしい思いをしたくないとか、情けない思いをしたくないという親のエゴです。
親がいつまでも子どもにベッタリして行く先々で子どもの失敗を未然に防いだとしても、子どもはいつか親元から離れていくものです。
一度も失敗をしなかった子が、大きくなってから初めて失敗をしたとしたら、その時に子どもが感じる衝撃は小さな頃に失敗することに比べ、遥かに大きなものになります。ヘタをするとそのたった一回の失敗で人生を棒に振るかもしれません。
優しさや厳しさのつもりで失敗を防ぐ行為が、実は子どもの学びの機会を奪う最も残酷な方法になってしまいます。
大切なのは、失敗を親が防ぐのではなく、子ども自身が自ら防ぐように行動できるようになることです。ですので親は子どもが失敗するとわかっていても敢えて失敗させて、そこから子どもに学ばせるくらいで良いのです。
失敗をした時にその失敗を叱り付けたり責めたりするのではなく、それが失敗なのか、なぜ失敗したのか、どうすれば失敗を防げるのか、を子どもと一緒に考えてあげることが大切です。
叱る、と怒るは違うもの
よく、「怒る」と「叱る」は違うといいますが、親が子どもに対してやって良いのは「叱る」事です。叱るというのは、感情を抑えて理路整然と子どもを諭す事です。
「怒る」という行為は、感情に支配されている状態です。子どものしつけには度々叱る必要はありますが、子どもはなぜ叱られているのかを理解しなければそこから学ぶことはできません。つまり叱られている状態というのは子どもにとっては失敗している状態なのです。
しかし、親の怒りに触れている子どもは、その怒りに対して、恐怖に支配されている状態となります。そうなるとその状態から脱出することしか考えられなくなり、何が原因で怒られているのかもわからなくなります。失敗から学ぶことなど到底かないません。
「しつけ」と称して子どもを殴ったり、やたらと怒鳴り散らす人がいますが、これは子どもに対しては最もやってはいけないし、効果もありません。
子どもは怒鳴られたり、殴られたりする度に、自信を失い、自己評価が下がってしまいます。大人でもそうですが、自己を肯定する感覚というものは人生を豊かにし、成功するためには非常に重要な要素です。
自己肯定感が高くなると自分自身を信じる力が強くなります。褒められたりおだてられたりすることで更に自己評価は高まります。自分自身を信じる力が強いから、一度や二度や三度の失敗でめげずに努力を続けることができます。
いつも怒られてばかりの子どもは自己肯定感が弱いため自分を信じる力が弱くなります。
そうすると自分のやっていることに自信が持てなくなり、ちょっとでもうまく行かなかったりするとすぐに自分のやっていることに疑いを持ってしまい、継続していくことができなくなります。この方法でちょっとやってダメだから別の方法でまたちょっとやってダメ。すると、どうせ何をやってもダメだと思い込み、徒労感ばかりが募り、ついには諦めてやめてしまいます。
それで諦めてもしばらくすると何かやりたくなり、他の事に手をだしますが、同じように挫折をしてしまい、それを何度でも繰り返すことになります。
サッカーを少しやってもうまくならないから、次は野球、少しすると諦めて今度は水泳を少しやって・・そうすると何年経ってもどれも初心者から抜けだせません。結局スポーツは何をやってもダメなんだと決めつけてしまいます。おまけにサッカーを何年もやってきた子がいつの間にか自分よりも遥かに上手担っている姿を見て、あの子にもできることが僕にはできないんだ。と劣等感が強くなるばかりです。
自己肯定感の強い子はともすると傲慢や自信過剰に映るかもしれませんが、周囲に対して礼儀に欠けた行動をとらないかぎり問題に成ることはありません。むしろ芯が強くブレにくいため自然とリーダーシップを取るようになります。
自己肯定感の強い子は、自分のやっていることに疑いを持ちにくいので、すぐに成果がでなくても自分の努力を信じて続けることができます。ご存知のように、努力というのは一定期間以上続けなければ実力とはなりません。スポーツでも勉学でも同じです。
「転石苔を生ぜず」という言葉がありますが、転々と転がる石には苔が生えないことから、仕事や努力をコロコロ変える人はなんでも中途半端でやり遂げたり、何かで一流になることが無いという例えです。
創造力はたくさんの失敗から生まれる
世の中には非常に優れた芸術品や工業製品がたくさんあります。たくさんの工夫を散りばめたそれらの創造物に触れると、こういう物を作れる人はいったいどんな天才なのだろうと思ってしまいます。さぞかし素晴らしいひらめきから生まれたのだろうと考えます。
かのトーマス・エジソンはこう言っています「発明は、99%の努力と1%のひらめきだ」と。
ですが私はこう思います。「発明は数えきれない程の失敗作の中に生まれた1個の成功作だ」と。
どんなに天才であっても、優れた発明家であっても、いきなり素晴らしい作品を作り出せるものではありません。突然、素晴らしい創造性を発揮して優れた製品を生み出すわけではありません。何千何万回もの試行錯誤と、数多くの失敗の中から改良したり、気づいたりしながら生み出されてくるものです。
掃除機で有名なダイソンの開発者、ジェームズ・ダイソンは1個の完成品を生み出すまでに、5120個もの失敗作を作り続けたと言います。
凡人と天才の違いは、諦めずにとことん突き詰めていく姿勢の違いです。必ず目的とするモノを作り出すのだという確信を持つことです。
諦めずにやり遂げたからこそ天才と言われるようになったのであって、天才だから諦めないのではありません。その努力を支えているものは、「自分にはこれをやり遂げる力があるんだ」という自信です。根拠が無くても良いのです。自分自身を信じる力が強いからこそ、周囲の雑音や数々の失敗を乗り越えて努力を続けることができるのです。
まとめ
人生に於いて成功を納めている人は例外なく努力家です。天才と言われる人でも例外なく努力をしています、むしろ天才と言われる人こそ努力を惜しまないものです。
努力を続けるには強い自己肯定感や、高い自己評価が必要です。自己評価はどれだけ多くの問題を克服してきたか、で高まり、自己肯定感は、どれだけ成功体験を重ねたか、で高まります。
幼いうちの失敗は同じ数だけの失敗の克服というチャレンジにつながります。親のすべきことは失敗を親の力で未然に防ぐことではなく、失敗を自分で克服できるように一緒に考えてあげることです。失敗を重ねた子ほど多くの学びの機会を得ます。
失敗を恐れるあまり行動できない子よりも、多少無謀で馬鹿に見えても、失敗を恐れずにチャレンジしていく子どもの方がはるかに有意義な人生を歩むことができるでしょう。