学ぶということ。「失敗」よりも怖いのは「何もしない」ということについて。
教育論をぶちまけるつもりはないので、間違えを恐れる子が多いような気がするので心配です。
とはいっても、間違えることが良い事かというと100%そうでもないのです。
間違えるってダメなの?
いきなり結論からいうと、といってもあくまでも私自身の持論というか結論なんですが。どんどん間違えたら良いと思うんです。
もういきなりで何言ってんだかって思われるかもしれませんが、間違えることができるっていう状況で間違えないのはもったいないっていうか、敢えて間違えても良いんじゃない?と思うくらいで。むしろ、いきなり正解!って言われる答えにたどり着いちゃうよりは、これも間違えあれも間違え、いったいどうしたら正解になるんだろう、これはなんで間違えなんだろうっていう事を考える機会が得られる分、間違えた方がいいかもしれないとさえ思えるんです。
“たまたま”正解を出すより、確実に”正解”に至ることが出来る方が良いってことですけど、そのためには、いろいろある選択肢の中から間違えを選べないと学べないこともあるなっていう事なんですね。
なんの話かっていうと、知恵の輪みたいなものです。
あれって、適当にいじくってるだけでも、時々するっと。なんの前触れもなく、まるで始めからそうだったみたいに、外れることってありません?
今までどうやっても解けなかった答えが、ある日偶然訪れたときに、なぜ正解に至ったのか分からずにただ、正解に至ったというだけで褒められたり、得意になったりしてもそれは何の実力も伴わない結果にすぎなくて、次に同じ問いに対してまた同じ解をだせなければ、期待される分不幸だと思うのです。
間違えて間違えて、いろいろ考えて、試行錯誤して、その中で正しいとされる答えに至る道筋を自分で見つける力を身に付ける事ができる事が大切だと思います。
だからこそ、間違えるべきなのだと思うのです。
学校教育を批判するわけではありませんが、学校でのテストは満点が100点で不正解をするとそこから減点されていく、という減点方式です。
運動でも座学でも、失敗したり不正解だったりするとクラスのみんなから笑われたりします。
教室で、先生は不正解の場合は正解ではないことだけを伝えて、なぜその不正解を出したのかについて生徒に質問をすることはあまり無いようです。
こういった教育を小学校、中学校、高校と12年間も続けてくるので、自然に私たちは間違えることは恥ずかしくて悪いことだと覚えこむようになります。
すべてに当てはまるわけではないのですが、そうすると中には間違えることを恐れるあまり、間違えない事を選択しようとしてしまう子が出てきます。間違えない事=答えを出さないということですね。
すべてのケースで当てはまるわけではありません、ですが、こういう効果を「萎縮効果」と呼びます。結果を恐れるあまり、結果を出すための行動をとらなくなるということですね。
こうなってしまうと、正解はおろか、不正解もださず、つまり何の結果も残さないという最悪の状態になります。
正解であれ、不正解であれ、結果を残すということが何よりも次につながる大切なステップなのだということを学ばず、ただ不正解を出すことが悪だという認識で大人になってしまうと、非常に消極的な大人になってしまいます。
誰とでも無難に付き合っていけるけれども、これといって特徴的な強みも弱みもなく、平々凡々として、しばらくすると人の記憶にも記録にも残らず忘れ去られていくようなそんな存在になってしまうかもしれません。
実力の伴わない正解は怖い
間違えるということのもう一つの効果について・・
算数の答えみたいに質問ひとつに正解一つっていう場合でも、間違え方っていくつもあると思うんですよね。
間違えのパターンを知るということも全体を知るという意味ではとても大切なプロセスだと思います。
何よりもこわいのは、自分の実力を伴わない自信をつけてしまうことです。偶然たまたま正解したに過ぎないのに、なぜかそれを自分の実力だと勘違いしてしまったり、「なんだ簡単だなぁ」と問題を過小評価してしまう習慣が身についてしまうことです。
こうなってしまうと、なかなか努力をするという習慣が身につかず、はじめは他の人よりも優秀な成績を残せたはずなのに気が付くと平均並みか、それよりも少し下になってしまうこともあります。
気が付いたときにはもう遅いことが多く、ただただ根拠の無い自信と過去の栄光だけを引きずる痛々しい人になることもあります。
また、この状態からもう一度努力を試みてもちょっとうまくいかないだけで心が折れる挫折しやすい人になってしまいます。
間違え方をいくつも知っているということは、少なくともその方法をとらなければ正解に至りやすくなるということを知っていることでもあります。
大人になれば誰でも体験することですが、正解というものはなかなか見つからないものです。算数のテストのようにはっきりとした答えのでる課題の方が圧倒的に少ないものです。
大きな失敗をせず無難に結果をだし続けることを要求される社会では、いかに間違わないかというテクニックが大切になります。間違えても大丈夫な時期にどんどん間違えておくということは、とても大事な体験だと言えます。
質問力を高めよう
少し話しはずれますが、「質問力」という言葉があります。
求める答えを得るためには、正しく質問しなくてはならないという意味ですね。
これ、質問に答える側からすると、質問者の質問というのは色々な情報を提供してくれるものなのです。
ひとつには、相手がどの程度その問題について理解しているのかを測るバロメータになるということですね。
「正しい質問」というのは、「求める答え」を得るための質問であると同時に、回答者に対して、どの程度自分が理解しているか?ということを伝える意味もありますので、常に質問と回答を繰り返していけば徐々に正しい質問をすることができるようになります。
これはある意味訓練でもあって、たとえば逆上がりや跳び箱などの運動と同じように反復練習によって、より高度なテクニックを身に付けられる、そういう類のものです。
ですから、質問はどんどんすべきですが、何も考えずにただ質問だけを繰り返していては、質問をすることに慣れはしてもある程度以上の実力は伸びないのは運動の反復練習と同じです。
素直に学ぶ、素直に聞く
勉強に限らず、あらゆるシーンで伸びる子、伸びる人には共通してある特徴があります。
それは「素直に聞き、素直に実行する」ことです。
武道の教えに「守、破、離」というものがあります。これは弟子が師匠から学ぶ各段階を表す言葉です。
始まりの「守」とは師匠の教えを絶対的に守るというものですね。たとえどんなに意味がなさそうに思えても、師匠の教えを絶対的に守るという段階です。これが素直に聞くということですね。
師匠の教え、すなわち親や学校の先生の言うことを素直に聞くという段階です。幼稚園や小学校、もしかすると中学校くらいまではこの段階でしょうか?教えを乞うなかで最も長い期間を要します。
「破」と「離」についてはまた別の機会に述べるとして、この素直に聞くということが実はもっとも重要な要素だと思います。
素直に聞くとは、疑問を持たずに盲信するという意味ではなく、しっかりと考え、相手の言うことをきちんと理解する、そのうえで自分の考えとは異なっていたとしても、なぜ違うのか、なぜこれでいいのかを完全に理解するまで実践するという意味です。
この段階をしっかりと経ないで次の段階に進んでも、それは単なる我流でしかありません。
我流で道を開いていくには非常に長い時間と努力を要します。それでもかまわないのですが、人生には限りがあります。それに我流というか、自分流のやり方は次の段階以降いくらでも展開することができますので、決して没個性的になるわけでもありません。
まずは素直に、呼吸をするように、自然に食べ物を飲み込むように、きちんと基本から完全に身に着けることが学ぶうえで最も大切な最初のステップだと思います。